自分の生き方が分からないなら、「与えられてきたもの」を考えよう。

らしさを探すきっかけ

「生きる意味」って

生きてると不意に「自分は何のために生きるのか、生きているのか」という問いにぶち当たること、ありますよね。ぼくなんかは特に、仕事や就活、人間関係がうまくいっていないとき、孤独を感じたりするときなんかは特にそれが分からなくなって途方に暮れることがしばしばです...。

そうでなくとも、いざ「あなたの生き方、生きる目的は何ですか??」って聞かれたら、大半の人が返答に困ってしまうのではないでしょうか。

高尚な志なんか持ってないし、誰かの役に立ちたい!!ともそこまで思わなくて、自分が生きる意味が分からない。それでいいじゃんっていう声も聞こえてくると思います。

でも、いざという時、足場が無くなってどう生きたらいいかわからなくなった時とか、人生の節目となる決断をするとき、(助けてくれる人がいればいいけど、そうでないとき、)自分を支えくれるのはこの「生き方」なんじゃないかと思うんです。

そして、自分の生き方が分からないのは、あなたが自分自身について何も知らないからかもしれません。

でも、そんなこと言われたって、それが分かれば苦労しないわ!って感じですよね。

そこで今回は「自分が何を与えられてきたのか、自分は何を持っているのか」という視点から「自分自身」もとい「生き方」についてのヒントを少しでも探っていければと思います。

今日のテーマ:与える、与えられる

そこで一つ、みなさんに質問があります。

みなさんは今、「与えられている」と思いますか?
また、「何かを与えている」と思いますか??

「自分はまぁまぁ幸せに生きてこれた。だから与えられてるかな?」
「親には何もしてもらえなかったし、なにも与えられてなんかいねーよ。」
「まだ学生だし、そもそも自分なんかが与えられるものなんて何もない」

いろんな方がいると思います。
今回のメディア部のかきとめ。はそんな「与える/与えられる」について考えていきたいと思います。

与えられてないと思ってた僕 

さて、こんな記事を書いている僕もつい最近(一、二年前)までは、「自分は自分の努力でここまで来た。」とか「だれかに何か与えても時間の無駄」とか思ってました。

自身の生い立ちに加え、生産性/合理性中毒者だったこともあり、どこかこの世界を「一人」で生きている感覚があったように思います。
でも、大学に進学し、一人暮らしを始めた矢先にこのコロナ禍の世界に突入しました。

大学の友達もまだいないですから、それはそれは孤独だったし(割と平気な方だと思ってたのですが)かなりこたえました。

「朝が来てほしくない」と思ったし、天井を見上げてたら無意識に涙出てるときとかもありました、笑。

そんななか、前回のお話でも触れましたが、おばあちゃんが亡くなり、突如はるばる香川県まで帰省することになりました。                            
前回のお話 「ゼロになるからだ」

ほんとうは、たくさんのものを与えられてた

さぁ、そんなボロボロの状態の僕を出迎えてくれたのは、おばあちゃんが亡くなったというのに、めちゃくちゃパワフルな親戚たち。

お通夜(少人数)ではありえない量の食べ物を出してくれ、手粗めにぼくの帰省を喜んだりしてくれました。
そのなかで、僕が小さい時の思い出話や、いかにおばあちゃんが僕を気にかけてくれてたか、またおばあちゃん自身の生い立ち、人生についても教えてもらいました。

その時に自分はいかに多くの人にささえられ、深い愛をもらってきたかを思い知りました。
気づけていないだけで、いままでにたくさんのものを受け取っていたのです。
なんだかよくわからない、言葉にできないあたたかいもので体が満たされ、溢れていくような気分でした。
偶然にも、ボロボロだった僕はまたもやおばあちゃんに救われたのでした。
亡くなってもなお、与えられてしまいました。

与えられるもの。与えられたもの。

そうして、通夜が明けてお葬式が始まりました。
ひととおり葬式が済み、火葬にうつる際にさいごの言葉をかける時間があったのですが、それまで元気(に見えてた)親戚、親族の人たちが次々に泣き始めました。
そして、口々に「ありがとう」と言い始めました。

僕がはじめに思ったのは「この人はなんてすごい人だったんだ」ということです。
僕を含めこんなにも多くの人に何かを「与えてきた」人だったのです。

また、「与えられた」人たち(僕が幼少期お世話になった親戚の方々)はそれを受け取って、今度は僕に多くのものを「与えて」くれたのです。

この体験をした僕は、今度は自分が「与える」番だと思うようになり、いろいろやりはじめました。

まとめ

さて、つらつらと僕の体験談を書き連ねてきましたが、結局何が言いたいかというと、
与えられたものに気付くことって、案外難しい。
与えられてきたものは受け継がれてゆく。
自分が与えられてきたものに気付けば、今度は自分が誰かに与えていくことができる。
自分がどう生きれるのかが見えてくる。
かもしれないってことです。

自分がいままで与えられてきたものを一つ一つ振り返って、自分はなにを与えることができるだろう 
と思いをはせる。

そんな時間ができたら、あなたのこれからについてきっと何かが見えてくるものがあるのではないでしょうか。

逆に言えば、与えてほしいと嘆く/すねる前に、まずは(なにかを与えられるかどうかは別として)自ら行動しないと始まらない、ということでもあります。これは一緒に頑張りましょう。

今回は特に長くなってしまいました。今日はこんなところで失礼します。
この記事があなたの「自分らしさ」の一助になれば幸いです。 

メディア部 たくと

今回の裏話

はい、サクッと行きます。今回の話の構想は、僕の実体験がベースにあり、それが次に紹介する曲を聴き、肉付けされたものです。また、ルビーイン株式会社代表の千手さんとのお話で、千手さんのコアドライブが「幸せを与えたい」だってことを聴いたことも影響してます。

その曲はこちら

藤井風さんの「帰ろう」です。
この曲すっごい好きで、ここに書けないほど語れる自信があります、笑。

さて、藤井風さん自体が今回の記事の体現者のような方なのですが、中でもこの帰ろうの歌詞に

与えられるものこそ、与えられたもの

って部分があるのですが、今回の記事の原点は100%これです、笑。
藤井風さんは他にもやっばい曲ばっかりあげてるので、ぜひ聞いてみてください。それでは。

お知らせ:自分の「原点」を見つめつつ就活したい人へ

今回お話しした「与えられたもの/与えられてきたもの」を考えてみることは自分が何なのかを知りたくなったとき、その根本的なものを探るヒントにもなります。

自分が何を与えられてきて(習慣とか、価値観とか)今の自分ができているのかを考えてみると、おのずと自分が進みたい方向や進むことができる方向が定まってきます。

でもこれって、人生をとても豊かにしてくれるものの、一般的な「就活」なんかではあまり役に立ちません。

やはり、「自分を知り、自分らしくあること」と就職を両立することは不可能なのでしょうか。
でもそれって、「普通の就活」の話です。

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僕が今インターンをさせてもらってる、ルビーイン株式会社では、「自分らしさ」を追求した「逆就活」イベント、【ウェルハンティング】(well-being job hunting)を無料で実施しています。
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ウェルハンティングって?

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