周りに合わせ、自分の意見が言えないのは、二つの視点が欠けているから。コロナ禍で「自分」を生き、行動するためのフレームワーク

らしさを探すきっかけ

はじめに:自分がだせないのって…なんで??

こんにちは。たくちゃんです。今日は少しまじめなお話を。

みなさんは、自分の意見はあるのに、それが言えない、周りに合わせて行動してしまう、なんて経験をしたことはありませんか??

質問しといてなんなんですが、誰しも必ず一度は経験したことがあるのではないでしょうか。当然僕も数えきれないほどあるし、実際にそういった声を聴くことも多いです。特に日本ではこの悩みを抱えている人は多いと思われます。

自分の思うことがあって、やりたいことがあるのにできないのは、苦しいですよね。仕方ないという諦めの気持ちがある一方で、自分の意見を出せないその状況、何より自分自身に腹が立って、モヤモヤします。

ではなぜこのように「自分」があるのにそれを出せないという事態が起きるのでしょうか。馬鹿馬鹿しい問いだと思われるかもしれませんが、一度真剣に考えてみてください。

「周りとズレた行動をするのが怖いから」「自分勝手だと思われたくないから」「温厚に生きたいから」いろいろな理由があるかと思いますが、僕はこれらの根本的な原因は

僕たちが「正しさに依存」していることなのではないのかなと思います。

っていきなり言われても「??」だと思うので、どういうことかを次の章でお話していきます。

なお、今回の議論は「自由と責任」にも近いものがありますが、それとは少し違う角度で切り込んでいきます。

「正しさに依存」する僕ら


僕たちが生きる上で、常に意識しているモノ、または判断・行動の基準となるものって何でしょうか。「効率」とか「損得」とかいろいろあるし、その判断基準は場面によっても変わってくるでしょう。

しかし、根本的なことを考えると多くの人にとって、「正しさ」が占める位置は大きいのではないでしょうか。

この「正しさ」(正義)ですが、自分の経験や考えの結果生まれたものならいいのですが、ここで取り上げたいのは「世間の(一般的な)正しさ」です。

この「一般的な正しさ」を知らず知らずのうちに行動や善悪の判断基準にしちゃっている人が結構多いんじゃないのかと。で、それが自分を出せない、行動できない状況を作ってるんじゃないかというわけです。(ちなみに、「依存している」ということは、言い方を変えると「内面化」になるのですが、この「内面化」についてはまた別のところでお話します。)

有名人が不倫したり、youtuberが良からぬことをすればすぐに大きな「リアクション」があります(批判だけではなく議論が巻き起こる)。もちろん不倫や迷惑行為などは許されることではありません。

しかし、その事件のことについてよく知りもしないで「不倫」「迷惑」といった世間では「悪」とされているワードだけで「こいつは悪だ」と判断してしまう人がとても多いのではないかと感じるのです。世間では暗黙のうちに「正しさ」が張り巡らされていて、それに触れた途端、「炎上」へまっしぐらです。

そういった不良行為を肯定しているわけではありません。ただ、判断の第一基準に「世間的な正しさ」がある状態ってヤバくない??といいたいのです。

何がそんなにヤバいの?普通じゃない??と思われる方もいると思います。この状態のヤバさは、

「雑(よく考えない)で速い判断をしてしまうこと」「自分を正当化しやすい」こと、などいろいろありますが、一番は

「世間的な正しさ」が、意識、または無意識下で、自分を縛る厄介な足かせになってくる  ということです。

字が汚くてすみません、笑


そうするとやっぱり

世間的に、一般的に正しい/正しくないのモノサシが持つ力って、意外とハンパなくて、それがあなたが「周りに合わせてしまう」要因かも。

と考えることができます。

ちなみに、この「雑で速い」しかも「自分を正当化しやすい」ようなモノサシは、しばしば暴走し(行動に移され)実際に被害を生みます。有名人などのインフルエンサーだけでなく、時として一般の人もこの被害に遭います。
最近で言えば「自粛警察」の件もそうですね。

では、どうすればこの状態から抜け出せるのでしょうか??

この問いと、この、「一般的な正しさに依存している」状態を考える際に大きなヒントとなってくるのがこの「コロナ禍」での私たちの生活です。
      

一人一人の「正義」と「弱さ」がむき出しな今、コロナ禍。

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このパンデミック下では、「世間の正しさ」というモノサシがあまり役に立たなくなってきました。

このパンデミック下で、外出する/しない、大人数で遊ぶ/遊ばない、黙食する/しないなどといった選択肢、いわば「正しさの分岐点」みたいなものが現れ始め、一人一人の形が異なる「正しさ」「正義」がいっそうむき出しに(目に見える形で)表れ始めたからです。

もちろん世間的に見て正しいのは「外出しない/大人数で遊ばない/黙食する」という選択肢です。しかし、それをわかっていても自分の欲求に勝てなかったり、または自分と親しい人がそれを守らない選択をとっていることを目の当たりにするようになりました。

尊敬しているあの人が大人数での会食をインスタにあげてるかもしれないし、食べ終わった後に話していたら、友人が先にマスクをつける時だってあるかもしれない。僕たちが友達と遊んでいる一方で、知人がパンデミックに伴う不景気で解雇になっている。なんてことも。そんなとき、何故か僕は苦しさに襲われます。みなさんはそんな経験ありませんでしたか??

しかもそれは、以前まで「善悪を気にする必要のなかった」選択肢なので、いっそう目立つし、モヤモヤします。

さらに、周りがやってやってるなら大丈夫かも…?なんて気持ちになっちゃったりもします。

こんなことを考えてると、「世間的な正しさ」の不確実性が浮き出てきますよね。

今って、「世間の正しさ」というラインが揺らいでいる、薄くなっていくなっている(正確にはもともとそうだけど、そのことが見えやすくなっている)時代なのではないでしょうか。


どうですか??自分の意見・行動を縛っていたもの、もとい「世間の正しさ」から抜け出すためのヒントが見えてきたでしょうか??

おわりに 違う形の「正しさ」とどう向き合うか。覚悟と責任のフレーム

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自分の意見や立場を言えば、批判されるのが怖くて、「あいつはおかしい、間違ってる」と思われる気がして人に合わせてしまう、行動できないという気持ちは痛いほどよくわかります。

では、どうやって「人に合わせる」生き方から脱却すればいいのでしょうか。ここからは、これまでの「正しさ」の話を踏まえつつ、「自由/自分」と「正しさ」の摩擦に負けてしまわないようにするための、一つのフレームワークをご紹介します。

それはつまり、正しさと覚悟の視点です。

自由には責任が伴う とよくいいますが、ここではその応用したようなものを考えていきます。
自ら行動したり、逆に他人の行動を評価するときに、私たちは責任や覚悟の存在を忘れがちではないでしょうか

以下の問いを考えてみてください。

・責任を持つと覚悟を決めて「正しさ」を捨てて行動した人を、僕たちは責めることができるのか。

逆に「正しさ」を破る覚悟がないからなにも行動しない、というのはどうなのか(しかも先ほど話したようにその正しさは曖昧なものです)。

・今自分が持ってる意見ややろうとしてることが(特に一般的に)「正しくない」ものだとして、実際にそれがどんな悪影響、結果をもたらすのか。それは自分にとって重要なことか。

みなさん、どう考えますか??もちろん状況によると思うので、みんなさん自身がやろうとしてることや、あなたの周りで実際に起こったことなどにこのフレームを当てはめて考えてみてください。

で、つまりは何が言いたいかというと、

何を選び、何を捨てるのか。自由、自分が決めた選択の代わりに何を背負うのかをまずは自身の場合で考えることが大切。そのうえで、自分自身やほかの人の行動について、このフレームを使って考えを巡らし、判断・決断ことが必要。 

ということです。 

また、らしさのきっかけ「人生哲学」#1でも触れていますが、その人の「未知の領域」についても考える必要があるでしょう。

そうやって考えていく中で、自分の善悪観とか価値基準がブラッシュアップされていき、情報と正義が立ち込めるこの社会での
「自分の歩き方」的なものが分かってくるのではないでしょうか。

いかがだったでしょうか、おせっかいにもいいとこな内容ですみません。

結局いいたいことは、「正しさと覚悟だったり、一度世間や自分の価値基準を問い直して整理してみると案外自分を出すのは怖くなくなるかもよ」っていうだけのことです、笑。

それでは今日はこの辺で!お付き合いいただき本当にありがとうございます。
この記事があなたの「自分らしさ」の一助になれば幸いです。

今回は少し切り込みすぎましたかね、炎上するかも笑。       

おまけ:正当化の呪い

おまけに、正しさに関連して、「正当化」についても少し触れておきたいと思います。

仮にみなさんが会食したり、黙食を破ったりしたとして、その時に「なぜそうしたのですか」と聞いたら、どう答えるでしょう。

「みんなやってるから」
「自粛ムードにうんざりだから、疲れたから」
と、どこか泳いだ目で答えてくれる人が大半ではないでしょうか。

でも、これらの答えって「自己正当化」ではないでしょうか。責めてるわけじゃありません、実際僕もそうしてしまうでしょうから。


僕はこれを「正当化の呪い」と呼んでいますが、この呪いを強化している/サポートしているモノは何でしょう。ひねくれている僕は、自分が愚かであると認めたくない気持ち じゃないかと考えています

正当化の呪いにかかっている人は、「正しくありたい」ことと「自分が愚かである」ことが相容れないものになってしまっているのではないでしょうか。

ちなみに、この「正当化の呪い」は長らくあのアメリカ合衆国でも問題になっています。アメリカ政府は国民や世界にアメリカの行動の正当性を見せることに固執し、メキシコ戦争やベトナム戦争といった悪夢のような惨劇を止められませんでした。その体質は国民にも影響し、広島、長崎への原爆投下について原爆は100万人の兵士の命を救うために投下された、だから正当だったとするアメリカの政府見解を支持するアメリカ人は終戦の年では85%もいたという報告もあります。

こんな正当化の呪いですが、何も特別なものではありません、すべての人にあるものだと考えています。人間は根本的に正しくありたいと思ってしまう生き物です。それは道徳的にも社会的にも、何より生きる上で必要なことだし素敵な事、美しいことだと思います。私たちは基本的に「いい人」でありたいと思ってしまうし、だからこそ無意識に自分を正当化してしまいがちです。

しかし、先にも挙げたように、このコロナ禍では、いやがおうにも自分の矛盾や弱さ、自身の正義感の欠点に向き合わされます。

だから、

「世間の正しさ」に依存してはいけない

と思うのです。世間にはびこる「正しさ」は多くの場合「当たり障りのない」ことでしかなく、あなたの行動を決めてくれるものではありません。
良くも悪くも、あなたの行動に責任を負うのはあなた自身であって、行動を決めるのもあなた自身です。

大事なのは、行動する/判断する度に、あなたは自分の正義やその矛盾と向き合わなければなりません。

今回の裏話

今回のおはなしは、ずっと自分の中にあったけどなかなか言語化できなかった内容で、以下の二つの動画を見たときにヒントを得て、よし書いてみるか、とチャレンジしたものです。

「悪は意外と平凡で、正義は複雑」ってのが刺さりました!

どっちも今回の話以外にも発見が多いチャンネルなので、ぜひチェックです!

この善悪観的な話はこれからもちょいちょい出てくると思うので、興味のある方はお楽しみに。今日紹介したらしさのきっかけ人生哲学のほうで「ダークナイト」と「リーガルハイ」を絡めつつ詳しくやっていくかもです!

                メディア部 たくと
(インスタ)
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