自分が生きてる価値わからなくなった時に大切な考え方 あなたはなぜ生きてていいのか

らしさを探すきっかけ

はじめに:「生きる」ってなにか気になりませんか??

あなたは「社会で言われてるような生きる意味、生きる価値」に違和感を感じたこと、

もしくは自分の生きてる価値が分からなくなったことはありませんか??

もしそう言った経験がある方、またはその真っただ中だという人はぜひこの記事を読んでみてください。

今回の記事では「人が生きている意味・生きる価値」についての3つの考え方を通して、なぜ僕が「自分が生きている意味で悩む必要はない」と思うのか解説していきます。

【注意】
今回は僕の主観がふんだんに入った記事です。こんな人生観もあるんだなーぐらいの気持ちで読んでみてくださいね笑。

生きてる価値って…

こんにちは。ルビーインメディア部のたくとです。
突然ですが、皆さんは自分が生きている意味や生きている価値って何だと思いますか??

急になんだ!
それが分かんないからこんな記事読んでるんだろ。
そんなこと考えても無駄。

なんて思われるかもしれませんが、そういわず少しだけお時間をください。

この問いに対する僕の答え、つまりこの記事の結論は
「生きているだけで価値がある」です。

では、なぜ僕がそのように思うのか、「人が生きている意味・生きる価値」についての3つの考え方をご紹介します。

生きてる価値への考え方①能力や生産性≠生きる価値 

まず、生産性や能力はあなたの「生きている意味」に直結しません。

たまに社会に認められるような能力・生産性がないこと、または仕事や学校でうまくやれないことを理由に、「自分には生きてる価値がない」と考えてしまう人がいますが、僕はそうは思いません。

社会では勉強ができたり、スポーツができたり、いい仕事についてたり売上が高かったりすると人から尊敬されやすいですし、「努力して能力を上げること」が美化される風潮もあります。たしかにそのような人は経済的観点から見ると価値があるし、そんなの関係なく能力が高いと尊敬の的になります。このこと自体は当然ですし僕も同じ考えです。

でも、だからと言ってそういった社会で認められる能力がない=生きる価値がないなんてことにはなりませんよね(当たり前ですが)。そんなことを言い出したらそもそも憲法で保障される「基本的人権」なんて意味をなさなくなります。さらに、そんな能力主義的な考えは、最終的に優秀な能力を持ったものしか生きる価値がないという「優生学」「優生思想」に行きつきます。実際、世界各国ではこの優生的な思想との闘争の歴史があり、度々修正/廃止されてきています。

このような考え方に対抗するのが「倫理」であり、持論ですがそれは「合理」と反対にあるものだと考えています。

さらに、当たり前なんですが、そもそも生産性なんてゴールが何か、その人がどんな環境下に置かれるかによってその必要度や種類も変わってきます。能力も「何に対しての能力か、なんのために必要とされている能力か」でその意味合いや周りからの評価は変わります。生産性や能力への評価なんて極めて動的であいまいなものです。

錯覚しやすいのですが、生産性とか能力とかは、世間や社会が勝手に決めたモノサシ であり、それはあなたの価値そのものではないのです。

そのうえでどうしても評価されたい/生きてる価値を感じたいと思うのであれば、あなたが評価されやすいような環境探しも大事になってくるでしょう。

生きてる価値への考え方②そもそも生きる価値なんて誰にも図れない 複合体としての自分

先ほども言いましたが、生産性とか能力とかって、世間や社会が勝手に決めたモノサシにすぎません。

そもそも、生産性や人から図られるある特定の能力なんて、あなたを構成する一部でしかないわけです。しかも他者から見たものです。

それに対し、あなたの存在そのものについて考えてみましょう。

あなた、もしくは一人の人間を構成する要素って何でしょう。

人格、ステータス、出身地、文化、生まれ育った場所、その人が今までしてきた経験、家族構成…など、数えだしたら切りがないくらいの構成要素があってそれらが複雑に組み合わさって一人の人間という存在があります。

つまり、あなたが今まで生きてきて得た経験、培った感性、性格、その時々の感情と行動その他もろもろの複合体として今のあなたがあるわけで、ただ一部の人から生産性や能力が低いと評価を受けたりそれを自分で感じたりしたとしても、それはあなたがいる限られた状況、一コマだけを切り取っているに過ぎないのです。

時間、物質、非物質などいろんな次元における複合体として今のあなたがあるわけで、だから他のだれもとって代わることはできないし、何より素敵だと思います。

だからこそ、誰も(あなた自身でさえ)あなたの生きる価値は否定することができないし、そもそもそんなもの考えなきゃいけないこと自体どうなのって話です。

生きるってもっと根本的なものじゃないでしょうか。

あなたが、あなたのために生きて何が悪い
だって生まれてきて今までを生きているのはあなただもん

と思っています。社会的にはアウトですかね(笑)。でも、世界に一人くらいはあなたにこれを言ってくれる人がいてもいいんじゃないでしょうか。もし誰もいないなら、恐縮ながら僕がその一人になりたいと思います。

ちなみに、「生きてる意味って何?」への僕の現時点(二十歳の若造)での答えは
「生まれちゃったから生きてます。
わたしはわたしのために生きてます。」
ですかね。

生きてる価値への考え方③ヒューマンビーイング的視点から

ここではまずヒューマンビーイング(Human-being)ってなに?てところから解説していきます。

ヒューマンビーイングは、直訳すると人類、人間という意味になるのですが、文字からみてもわかるように、より人間の存在そのものに焦点を当てている概念といったところでしょうか。
「人間は存在していることそのものが価値がある」と神学の視点から語ってくれているのがヒューマンビーイングです。

何世紀か前からこういった概念は度々登場しており、当時は「いること」「存在」そのものが価値あるものとされていたようです。

では、なぜ今日の人間社会には能力や生産性を価値とするような風潮が強く根付いているのでしょうか。

僕は、原因は20世紀からの近代化(工業化、都市化)にあると考えています。

近代化を遂げはじめた社会では経済発展が第一優先とされ、そこでは当然生産性のある人間は重宝され、そうでない、まだ開発が遅れている非都市部は都市部(主に中央政府)から劣等的な扱いをうけてきた歴史があります。 ここら辺が気になる方は「ポストコロニアル」や「近代化の問題」などで検索をかけてみてください。

そんな社会的背景によって、徐々にメジャーになってきた「生きてる価値」への偏った認識はだんだんと見えない規範になっていったのではないかと思うのです。

そして、このような考え方が内面化(外からの意見がまるで自分の意見かのようになってしまっていること)されちゃった結果、自分自身で生きる価値について、存在価値について悩むような事態になっているのでは無いか、と考えられます。

そりゃ確かにいまの社会では生産性とか能力がある方が褒められるし評価されます。ついでにお給料もはずみがちです。
でも、それはあくまで生きる上でのオプション的なものにすぎません。

あなたがここに生きている。存在していることそのものに価値があると思うし、そう思っていいのです。そもそも生きるのに価値なんて考える必要ないんです。

僕も少し前は周りへの劣等感から「自分なの存在価値なくね??」なんて悩んでもがいたりしてました(もちろん自意識の中で)。
でも結局、「生きてて何がわるいの?」って開き直りました。

最後に、とある曲から読み取れるちょっと変わった考え方をご紹介します。

生きることは疲れるし、時々どう生きたらいいかわからなくなります。
でも大丈夫です。

この世界に生まれてきちゃったんですから、一生この世界と付き合い続けるしかないんです、どこへも行けないのです。

どうでしょう。
こう考えると逆に少し肩の荷が下りた気になりませんか?

ヒューマンビーイングとしてのあなたはずっと「ここ」にいるし、どこへも行けません。そのうえで、せっかく生まれちゃったんだから自分が楽しいように生きれたらいいですね。

おわりに

いかがだったでしょうか。今回はだいぶ僕の主観強めな記事になってしまいました笑。

冒頭でも述べましたがこんな考え方もあるんだな程度の眼で読んでみてください。

僕がサボり魔で、楽したい人間なのでこんな偏った意見になってますが、それを差し引いても現代の社会は生産性=価値みたいになってる風潮があると思うので、ぜひ今一度ヒューマンビーイングの意識を問い直してほしいと思います。

今回の裏話

今回の話は高校の時から感じてた違和感をあらためて深堀してみた感じです。

今回はあまりにも内容がまとまらなさそうだったので、大部分を「きみはどこへもいけない」という曲を参考にして構想しました笑。

それでは今回はこのへんで!この記事があなたの「自分らしさ」の一助になれば幸いです。

メディア部 たくと

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